生きる理由

「不幸しか生まれなかった。追い込まれた状況下で、自分の脆弱な精神を露呈したもの、命を落としたものもいた。」

映画トランボを観た。

人間は生きるために、食べることの他に、心が健康でなければならない。

心が健康であるためには、自分の人生を生きることだ。

特定の誰かに認められて大切に扱われたいから、自分を殺して媚びるみたいなことをするのは、その先にある自分の目的がはっきりしている人でないと、続かない。

むかし、2年ほど前、自己中だ、と言われたことがある。

では、自己中でない人は、どうなるのだろうか。

他人のために生きる人生で、自分の欲求を自分で認めない。

それって、苦しいだろう。

自己中=自分の欲求を中心に、生きている人。

それは、自分の欲求、したいことが自覚できていること。

そして、自分の欲求に従い行動していること。

しかし、それが、自分と繋がる誰かを喜ばせることが、自分のよいこと、欲求につながるのであったら、それは自己中ではなくなる。

だから、自分のやりたいことだけをやることが、自己中だとは言えないと思う。

見え方の問題だと思う。

人は、幸せになるために生まれてきた。

幸せになるためには、自分を大切にすることが必要だ。

自分が快適になるよう、食べ、風呂に入り、歯を磨き、所属し、よいと思うこと判断し、行動し、時に間違い、反省し、観察し、それらの繰り返しで、自分に対する信頼、つまり、間違ったりするけども、何とかなるし、自分はなんとか生きていけるな、という、自信がついてくるのだと思う。

誰かに抱きしめてもらいたい、という欲求について。

風俗に行っていた時、そんな気持ちを抱いていたことがある。

肯定してもらいたい相手とうまく行かなくて、代替として風俗に行ったけれど、虚しくなるだけだった。

欲求を叶えられなくて、その代わりとしてでは、心は満たされなかった。一瞬気持ちよくなるのだけれど、虚しさがあとに残った。この一瞬の気持ちよさが、依存を産むのだろうか。

特定の相手に肯定してもらいたかった。それは、その当時の自分の欲求である。そして、その相手に肯定してもらうために行動することをせず、お金と時間をかけて代替を求める行動をとった。その結果、うまくいくいかなかった。

自分は、その特定の相手に、抱きしめてもらいたかった。

他の誰かでは、ダメだった。

その相手は、自分の欲求の対象だった。欲求とは、抱きしめたいとか、キスしたいとか、セックスしたいとか、その先に、子供が欲しいとか、一緒に家庭を持ちたいとかいう、結婚したいというのも含めてだ。

そういうことを考え続けていたら、その相手が、自分の生きる目的になった。

その相手に否定されたらどうしようとか、相手の一挙手一投足が気になってしょうがないとかで、心が不安定になった。

自分を大切に生きるのが難しくなった。

自分が生きる理由の一番に、他人を設定してはいけない。

自分が生きる理由の一番は、自分だ。自分が幸せになることだ。

自分が大切に思う誰かとともに生きることが、自分の幸せと思えること。でも、それは2番だ。

自分の人生を、他人に依存してはならない。誰も責任はとらない。自分が何をしたいと思っているかわかるのは自分しかいない。自分の人生をどう生きるか。どう感じたか、どう行動したか、何が起きたか、どう感じたか、何をしたいと思ったか、その上で考え、どうまた行動するか。行動するためには、自分がこれを正しいと思い、力を使うことが必要なのだ。自分を幸せにできるのは、自分しかいない。