人はいかにして狂うか

マンガ肉の映画を観た。

テーマは、「寄生」。

男女関係の中で、相手を支配しようとするが、ことごとく人間関係が崩壊する様が描かれている。

依存する関係はうまくいかない。

男であれ女であれ、まずは生きていくために、経済的に自立することが、自分の精神の安定のために必要なことなのだ。

社会性を得るために、仕事をするという基本的なことがある。

自らの衣食住を他者に依存した場合、少しずつ、徐々に、狂っていくという感覚は、僕が職を探しに東京へ出てきたとき、専門学校時代の知人の家に居候していたときに感じた感覚と同じだ。

また、誰かに必要とされているという感覚を、セックスにおいて感じるというのも、似たようなもので、片思いの女性に自分の生きる意味を見出し、相手に冷たくあしらわれて、自分の生きる理由を失い、精神がおかしくなるというのも、似たような経験をしたことがある。

これらに共通するのは、どちらかが自分の感情、つまり、自分がどういう気持で、相手にどうして欲しいかを言語化して、相手に伝えることができているか。これは、双方にできていないと、うまくいかず、崩壊するということを示唆している。

デブの彼女は、大人になった彼に対して、変わったね、と言った。

彼女は、経済的自立と、本来の容姿を手に入れた。

誰かに、精神的に依存する必要がなくなった。

だから、映画の終盤で、彼が男としての自信を、女をセックスによって得ていることに気がついたのだろう。

気づき。

彼に、好きじゃなかった、と言い捨てられた彼女も、怖いか、と言われたデブの彼女も、素直に相手に思っていることを伝えられることで、内省が生まれ、自立に向かうことができたのだと信じる。

誰だって、想像の中で生きることは、選択肢が無限にあり、身動きがとれない。

何かを行動するためには、自分がどうしたいか、を決めることの材料として、相手がどう思っているか、どうして欲しいと思っているか、を伝えられなければ、身動きがとれない。

彼に寄生して生きていた彼女たちは、拒絶の意思を伝えられ、その時点では泣き叫んでいても、では、自分が生きるためにどうすればよいかを考えだし、社会的に生きていくことができたのだと想いたい。

この思考過程は、僕自身にも当てはまるところがある。

自分の生きる理由をある女性に見出し、告白して振られ、生きる理由を失い、彼女を自らの日常から物理的・論理的に拒絶、距離を置き、彼女に対する思考リソースが減少、激減し、仕事へのリソースが増え、やっと、今、許す、どうでもよい存在となるという段階となった。

普段の生活における思考が、ちんこに乗っ取られる。

僕が彼女に対して思っていた感情というのは、そういうものだったのだ。

結婚したかった、彼女の子供が欲しかった、そういう僕の想いは、彼女に対する自らの性欲であり、それを相手に言語化あるいは非言語によって伝えることができず、日々悶々とし、それを自分の生きる理由と設定し、ある時拒絶を受け、死にたくなる、という過程を経た。

アイドルをナイフで刺した彼が言った動機は、彼女と結婚したかった、と。

それを聞き、僕も、あの時自死と生命保存メカニズムが秤にかかった時、自分の生命を脅かす存在である相手を、現実から消し去ることで、自分の精神から消す助けとすることを選択した可能性があったのだと、震えてならない。

衣食住を他人に依存する人間は、自立した人間と比較し、狂う確度が格段に上がる。

だから、自分は、このうんこな世界で生き延びるために、少なくとも経済的に自立しなければならないと思うのだ。

 

(7月18日追記)

そしてその上で、精神的な支えをどこに置くか。独り身である僕は、大切な誰かというのは存在しない。少なくとも、相手に何も伝えず、片思いのまま自らの妄想をふくらませることは、相手が自分のことを否定的に捉えていることを知った時、世界が揺らぐ。生きる理由を失う。そのことを身をもって経験した。

大切なのは、自分の心の状態を知ること。言語化すること。それを相手と随時共有すること。そして、相手と自分の心の距離を知ること。その上で、自分がどうしたいかによって、今、この瞬間、行動すればいい。その連続、繰り返し。それが、自分を信頼することだし、相手を信頼することに繋がる。自分を信頼していなければ、行動することはできない。相手を信頼していなければ、何かを伝えることはできない。