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生うどん食堂in大阪

見てきた。

すげー面白かった。

すごくパワフルで、怖いもの無しで。

笑って、元気になれて、応援したくなる。

チェキ一緒にとってもらって、食いしん坊ネーム「チャウチャウチャーハン」を付けてもらった。いえーい。

CDを出すことにこだわりはないのは、きっと、寸劇と、エンターテイメントを提供する側である、という想いがあるからなのだろう。

会場に集まった人の数、表情や笑いの空気感で、やり遂げたことの大きさを感じられる。

人たらし。

自分たちでやったことだから、起こったことも、自分たちで受け止めるし、それから感じて考えたことを、また歌や寸劇に消化/昇華していく、面白く。

そこには、第三者の大人のこうあるべき、という思想が反映される余地があまりない。だって、やりたいことを自分たちがやると決めて、やって、結果も受け止めているから。

生うどんの二人には、これからも怖いものなしでやっていって欲しい。

応援してます。

GW

最近、アウトプットをしていない。

本を読むことなどでインプットしたものは、自分で考えた結果をアウトプットする。そのことが、自分自身のよどみをなくし、流れを作る。つまり、健康的な状態だ。それが、ものを書くというアウトプットをしていないので、最近はインプット、本を読むなども滞りがちになっている。

だから、今、これを書いている。

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広島の5月は暑い。

去年の10月に広島に来て、初めて経験する夏になる。

もともとは東北出身で、東京で仕事して、西は大阪までしか行ったことがなかった。

広島の中区は、盛岡に雰囲気が似ていると感じるのは、人通りが同じくらいで、町並みも都会過ぎないからなのだろうか。

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 俺には誰かに伝えたい事がない。だから、SNSのアカウントをとって、何かをぽつぽつとつぶやいてみるものの、たいてい3日ほどで放置に至る。俺には、誰かに聞いてもらいたいことがないのだ。しかし、高校生の頃は、日常の考えたこととか、違うだろ、と、憤りを感じたことについて、さらさらと、流れるように、記述をしていた気がするのだ。面白い文章を書くことについて、アンテナを張って生活をしていた。それは、テキスト系サイトの面白さに感化されていたからなのだろう。つまり、自らの興味が、自発的にそれを求め、それを自分でも生み出す、という、循環を生み出していた。つまり、循環、流れがあるという点において、健康的であった。テレホ族ではあったのだけれど。

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自分勝手な解釈

人を好きになるには、まず自分のことが好きでなければならない。

なぜなら、自分が嫌いなまま人を好きになると、自分の意思を相手に預けることになり、相手から拒否された時、自分自身の拒否、つまり、アイディンティティの消失につながるからだ。端的に言うと、死にたくなる。

自分が彼女を好きになったのは、そういう状態であった。

彼女の「物体」としてのすべてが好きだった。彼女のうんこすら食べたいと思った。そして、今でもそう思っている。

しかし、彼女と関わったあと、必ずと言っていいほど、自己嫌悪になった。彼女のことを考えるとき、常に不安になった。なぜなら、自分のアイディンティティを彼女へ投影していたので、彼女に否定されることは、自死に繋がることだった。彼女と関わることが、大きなストレスであり、少しでも否定的な態度をとられたら、とても落ち込むことになった。相手に合わせることで、自分がなくなっていくのを感じていた。

自分がなくなっていくこと、自分が自分でなくなっていくことに対して、心が拒否反応を示していた。

彼女は、見た目はとても魅力的だった。

しかし、彼女の立ち振舞が、嫌いだった。

彼女は、他者から好かれる、魅了する目的で、いろいろな行動をとっていて、自分はそれが嫌いだった。

自分は、物体としての、表面的な彼女は、今でも好きなのだけれど、内面的な彼女が嫌いだ。

自分は、そう感じている自分を信頼している。

物体としての彼女は好きだが、精神としての彼女は嫌いで、一緒にいたら自分が嫌いになる。

自分は、自分のことを信頼していたいので、彼女とはできるだけ遠くにいるようにする、そんな自分の選択が正しいと、自分が認める。

そして、自分を拒否した、彼女のそのような生存戦略を認める。

 

考える事について

ぱぷりこさんのお焚き上げ記事を読んだ。

ああ、そうか。自分は、考えるふりをして、後悔をしていたのだと気がついた。

あの時こうしていればいい方向になったんじゃないか、実は彼女は自分に好意があったから、それが表に出ないよう、硬い言動をしていたのではないか。

そういった、もうもどれない過去や、もう相手と関わらないと決めたにも関わらず、相手に聞いてみないとわからないことについて、もう3年ほど、思考リソースを使っている。

より正しいのは、行動するために考えることだ。

もう相手と関わらないと決めたのなら、自分が幸せに生きること、違う相手を幸せにするために、どう行動するかということを、考えるほうが、いい。

 

コミュニケーションについて

自分は、彼女との子供を望んだ。

それが、自分の生きる目的だと、考えていた。

しかし、彼女と関わる度に、傷ついている自分がいた。

自分のことを、分かってくれないと、彼女の態度から感じていた。

同じことを、彼女は、自分と対峙する時に、用事がないときは物理的に離れているとか、彼女がいても話しかけないとか、彼女から話しかけたら硬い表情で冷たい声だったことから、感じていたのではないだろうか。

そのようにして、自分は彼女とは性格が合わないと確信して、諦めることにした。しかし、それは、自分の生きる目的を失う結果となった。

もともと、彼女が自分の生きる目的になってから、そのあと告白して振られてしまった時点で、自分のこれまでの基盤が一旦全て崩れ去ったことを感じていた。つまり、自分には、生きる理由がなくなってしまった。自分は少し狂って、彼女とは今まで通りに接しようと試みたが、返ってきたのはしかめた顔と、自分とは違う誰かとの親密な言動。さらに違う誰かと同棲したという噂。それに、自分は、深く傷ついた。死にたくなった。彼女に受け入れられない自分には、生きる価値がない、と、思った。


時系列としては、デート、彼氏募集中の話、告白、振られる。


彼女は、当時の生存戦略として、誰かとの親密な言動をした相手が、それに乗ってくる反応で、自分の恋愛市場価値を確認する必要があったのではないか。今は、そう考える。とすると、彼女は当時、心の奥では、承認欲求を渇望していたのではないだろうか。


お互い、相手がわかってくれない、と感じ続けたことによって、関係は壊れた。相手の全てを受け入れる、と思っていたのだけれど、それは同時に、相手には興味がない、ということになる。相手がなにをしても、当たり前になってしまう。そういうものだ、と思い、疑問も質問も生まれない。表面だけで、深みも生まれない。


適切なコミュニケーションとは、相手に話をしてもらうこと、質問をすること、リラックスした雰囲気の中で、相手に興味を持つこと、相手のことを知りたいと思うこと。相手をわかろうとすること。

関係性における問題点

  自分は、彼女との関係性が出来ていないのにもかかわらず、彼女の子供が欲しいと、強く願ってしまった。

  そのため、不安の中で相手と対峙することとなり、時と場合で不安定な関わりをしてしまった。

  相手はそれを警戒して、緊張感のなかで自分と関わることとなった。

  その相手の態度によって、相手と関わることに対する自信を失った。

  相手との子供が欲しいという望みが失われることによって、自分の存在意義を失ったように感じた。

  すなわち、死にたいと思うことに至った。

断片

・距離感を誤ると人は警戒心を持つ。

・失敗の原因は、相手と自分がそれぞれ感じている双方に対する距離感について、相手は遠い、自分は近いという認識において、言動を行ったためである。

・その結果として、相手は馴れ馴れしく接してくる自分に対して警戒心を持ち、できるだけ均等になるよう、まだあなたとはそのような親しい関係にない、というサインを送らざるを得なくなったのであろう。

・相手に親しい言動を取ると、相手が拒否するような反応をする。その反応を見て、傷つく。それに気がつかない振りをして、同じ態度を撮り続けた結果、ある程度のしきい値を超えたところで、諦めるための試みとして、相手を見ない、近づかない、話を早々に打ち切るために、冷たい反応をすることとなった。つまり、距離を縮めることをやめ、出来る限り遠くなるよう距離を取ることにした。実現し得ることのない未来に希望を持たないようにするために。当時(今もその傾向はあるが)、生活におけるあらゆる「間」で、相手のことを考えることとなり、そのためにマインドリソースをとられ続けてしまっていた。それは、自分の中での結論が「もう関係を修復することはあり得ない」と出ているにも関わらず、あの時こうしていれば、こういう展開もあり得たという、非生産的な妄想である。言動を振り返り、感じたことを書き出し、次の行動につなげることが、考える、ということだとすれば、自分のしていることは、ただ思い悩み、時間を浪費することにほかならないのであった。そういうどこへもいけない閉塞感が、自己評価を落とし続けていることに薄々気がついていたので、ここできっぱりと諦め、自ら可能性を捨て去り、新しい可能性を見出すためには、その行動が必要だったのだ。