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20161231

 朝9時頃に目を覚まし、布団の中からiPhoneを使い、「クズの本懐」の電子書籍を全巻読む。

 昼はコンビニのハンバーグ弁当としじみの味噌汁を食べ、二度寝する。

 夕方、WORKING!!Amazon Prime Videoで見て過ごす。

 毎月3万円ずつ積み立てている定期預金を、年金共済に移動するか検討する。定期預金のWebから容易に残高が確認できる安心感およびいつでも引き出せる利便性と、年金共済の利率を天秤にかけたところ、めんどくさいから今のままでいいが優勢である。

 良いお年を。

20161218

本日のハイライト

・読了:カレー沢薫「もっと負ける技術」「ねこもくわない」

・これから読む:木下是雄「理科系のための作文技術」

・洗濯

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 師走である。

 一般的に師走といえば、一年の出来事をまとめあげて振り返り、お世話になった人に挨拶し、部屋を大掃除して、来年を気持ちよく迎えるための準備をする期間である。

 自分などもそろそろ掃除くらいはしようかと思っているのだが、眠ることと本を読むことに忙しく、なかなか体を動かせずにいる。

 来週の土日にでもやろうとぼんやり思う。

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 考えること、話すこと。

 考えていることを早々に人に話してしまうと、やめたほうがいいと言われたり、大したことはないと感じられたりして、傷ついて、もうやめようとしてしまう。

 それならば、個人的に大切と思われることほど、自分が納得できるほど具体的になるまでは、たやすく言葉にはしないほうがよい。

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 娯楽の中でも、歌声が切実な音楽に、心が震えるのである。

今日考えたこと

せんでもよいセックスをすると、何かが減る。

この現象について考えたこと。

セックスするときは、欲情している。そして、欲情すると、普段備わっている論理性とか社会性の割合がすくなくなってしまう。つまり、自分を自分たらしめるもの、普段の自分ではないもの、自分に対する制御がきかなくなってしまう。ちょうど、お酒を飲んで酔っ払ってしまったみたいに。蛭子能収さんが著書でお酒を飲まない理由を、自分が何かに乗っ取られるような感じがするからだと書いていた。これと似たようなものだ。

つまり、せんでもよいセックスをするときは、欲情していて、普段の自分ではないから、自分で制御できない自分がいることを発見し、自分を制御しつつ生きることに自信がなくなる、つまり、自分への信頼が揺らぐのだ。セックスが、せんでもよいセックスと定義されるのは、行為したあと、しらふの状態のときにそのように自分が定義するのが一般的だろう。好きでもないのに、噂になって立場が悪くなるかもしれないのに、なぜせんでもよいセックスをしたのか、と。そこには、自分ではない自分の関わりがある。自分でそれを選択したという実感がない。自分を制御することに対する自信が持てなくなる。自分の中の何かが削れる。ごりっ。

では、してもよいセックスとは何だろうか。たぶん、それを自分ひとりで決めることは難しい。相手からよかったということを伝えられるものなのだろう。そして、相手から伝えられたよかったが、きちんと自分に伝わるためには、自分が相手のことを信頼しているという前提が必要だ。つまり、あの人が言う私に対することばは、本当のことなのだ、と、自然に思えるような相手から。

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幸福と快楽の違いについて。

幸福は長期間に渡りゆるやかに続いていく。快楽は瞬間的に鋭利で続かない。

幸福は相手が人。快楽は相手が人とは限らない。

幸福は自分のまま自分が選び制御可能。快楽は自分ではない何かが自分を乗っ取り制御不能。

 

哲学を伴侶として生きる。(今の時点では)

人を好きだと思う回路と、ともに生きる伴侶にしたいと思う回路は、どうやら別物らしい、ということを考えついた。

好きな人ができて、その人に好かれる自分を演じることをした。それがしんどくて、しかもそれが相手に受け入れられなかった。

人を好きになると、相手を思ったり、近づいたりすると、ドキドキして、『かわいい』ボットと化す。それ以外の思考ができなくなる。つまり、脳内麻薬がドバーッと出て、自分の考える力が乗っ取られるような感じになるのだ。当時の自分は、それが気持ちいいことで、そのような場面を積極的に求めるような行動をとっていたのだけれど、今の自分は、それがひどく怖いと思うようになったので、意識して距離を取るようになった。精神的にも、物理的にも。

自分の考える力が乗っ取られることに恐怖感を覚えるようになれたのは、考えられる自分を失いたくなかったからだ。他者に自分の感じ方すらも委ねていたあの頃。どうすればよいか、それを聞くと、ある特定の人々は、マウンティングをかけてきて、上からの目線で、どうしようもないあなたをカイゼンするためにはこうしようと、自分のコントロール下に置こうと支配しようとしてきた。

そういうのに対して、表面ではニコニコと迎合するような態度をとっていたのだけれど、感じ方としては、ずっとおかしいと思っていて、なぜおかしいのかを考え続けていた。その姿勢によって、自分が今生きている。その姿勢がなければ、自分はある時点で、自殺していたと思う。哲学は大事だ。

コンビニ人間を読んで

コンビニ人間を読んで、そのあとで、無料配信されている、ラブレターを読んだ。

ラブレターの方では、コンビニとのセックスが描かれていて、僕は、コンビニとのセックスについて、よくわからなくなって、自分の中でのセックスの定義が揺らいだので、セックスとは何か、考えている。

今まで僕は、セックスとは、男女が互いの性器をぴったりと重ねあわせてこすりつけ合う行為だと思っていたのだけれど、それは性交であり、セックスとは違うのかなと考えるようになった。

セックスとは、感情を深く互いに通わせる行為として使用してもよい言葉なのだ。

つまり、セックスするのに、性器は必ずしも必要ない。

性交としてのセックスには、感情は必ずしも必要としない場面はある。

しかし、そのようなセックスは、かなり味気ないものになるし、行為したあとの虚無感といったらない。

だから、僕は、深い感情の交換としてのセックスをしたいと思うのだ。

この作品の筆者は、その対象が、たまたま人間ではなかったにすぎない。

人間として生きるのに、感情を交換する相手が、必ずしも人間である必要はない。

人間として生きているということの意味は、自分はこのように考え、このように行動する、というような、自分の人生を自分で決めていくような態度だ。

そんなことを、コンビニ人間と、コンビニへのラブレターを読んで、考えた。

生きる理由

「不幸しか生まれなかった。追い込まれた状況下で、自分の脆弱な精神を露呈したもの、命を落としたものもいた。」

映画トランボを観た。

人間は生きるために、食べることの他に、心が健康でなければならない。

心が健康であるためには、自分の人生を生きることだ。

特定の誰かに認められて大切に扱われたいから、自分を殺して媚びるみたいなことをするのは、その先にある自分の目的がはっきりしている人でないと、続かない。

むかし、2年ほど前、自己中だ、と言われたことがある。

では、自己中でない人は、どうなるのだろうか。

他人のために生きる人生で、自分の欲求を自分で認めない。

それって、苦しいだろう。

自己中=自分の欲求を中心に、生きている人。

それは、自分の欲求、したいことが自覚できていること。

そして、自分の欲求に従い行動していること。

しかし、それが、自分と繋がる誰かを喜ばせることが、自分のよいこと、欲求につながるのであったら、それは自己中ではなくなる。

だから、自分のやりたいことだけをやることが、自己中だとは言えないと思う。

見え方の問題だと思う。

人は、幸せになるために生まれてきた。

幸せになるためには、自分を大切にすることが必要だ。

自分が快適になるよう、食べ、風呂に入り、歯を磨き、所属し、よいと思うこと判断し、行動し、時に間違い、反省し、観察し、それらの繰り返しで、自分に対する信頼、つまり、間違ったりするけども、何とかなるし、自分はなんとか生きていけるな、という、自信がついてくるのだと思う。

誰かに抱きしめてもらいたい、という欲求について。

風俗に行っていた時、そんな気持ちを抱いていたことがある。

肯定してもらいたい相手とうまく行かなくて、代替として風俗に行ったけれど、虚しくなるだけだった。

欲求を叶えられなくて、その代わりとしてでは、心は満たされなかった。一瞬気持ちよくなるのだけれど、虚しさがあとに残った。この一瞬の気持ちよさが、依存を産むのだろうか。

特定の相手に肯定してもらいたかった。それは、その当時の自分の欲求である。そして、その相手に肯定してもらうために行動することをせず、お金と時間をかけて代替を求める行動をとった。その結果、うまくいくいかなかった。

自分は、その特定の相手に、抱きしめてもらいたかった。

他の誰かでは、ダメだった。

その相手は、自分の欲求の対象だった。欲求とは、抱きしめたいとか、キスしたいとか、セックスしたいとか、その先に、子供が欲しいとか、一緒に家庭を持ちたいとかいう、結婚したいというのも含めてだ。

そういうことを考え続けていたら、その相手が、自分の生きる目的になった。

その相手に否定されたらどうしようとか、相手の一挙手一投足が気になってしょうがないとかで、心が不安定になった。

自分を大切に生きるのが難しくなった。

自分が生きる理由の一番に、他人を設定してはいけない。

自分が生きる理由の一番は、自分だ。自分が幸せになることだ。

自分が大切に思う誰かとともに生きることが、自分の幸せと思えること。でも、それは2番だ。

自分の人生を、他人に依存してはならない。誰も責任はとらない。自分が何をしたいと思っているかわかるのは自分しかいない。自分の人生をどう生きるか。どう感じたか、どう行動したか、何が起きたか、どう感じたか、何をしたいと思ったか、その上で考え、どうまた行動するか。行動するためには、自分がこれを正しいと思い、力を使うことが必要なのだ。自分を幸せにできるのは、自分しかいない。

 

人はいかにして狂うか

マンガ肉の映画を観た。

テーマは、「寄生」。

男女関係の中で、相手を支配しようとするが、ことごとく人間関係が崩壊する様が描かれている。

依存する関係はうまくいかない。

男であれ女であれ、まずは生きていくために、経済的に自立することが、自分の精神の安定のために必要なことなのだ。

社会性を得るために、仕事をするという基本的なことがある。

自らの衣食住を他者に依存した場合、少しずつ、徐々に、狂っていくという感覚は、僕が職を探しに東京へ出てきたとき、専門学校時代の知人の家に居候していたときに感じた感覚と同じだ。

また、誰かに必要とされているという感覚を、セックスにおいて感じるというのも、似たようなもので、片思いの女性に自分の生きる意味を見出し、相手に冷たくあしらわれて、自分の生きる理由を失い、精神がおかしくなるというのも、似たような経験をしたことがある。

これらに共通するのは、どちらかが自分の感情、つまり、自分がどういう気持で、相手にどうして欲しいかを言語化して、相手に伝えることができているか。これは、双方にできていないと、うまくいかず、崩壊するということを示唆している。

デブの彼女は、大人になった彼に対して、変わったね、と言った。

彼女は、経済的自立と、本来の容姿を手に入れた。

誰かに、精神的に依存する必要がなくなった。

だから、映画の終盤で、彼が男としての自信を、女をセックスによって得ていることに気がついたのだろう。

気づき。

彼に、好きじゃなかった、と言い捨てられた彼女も、怖いか、と言われたデブの彼女も、素直に相手に思っていることを伝えられることで、内省が生まれ、自立に向かうことができたのだと信じる。

誰だって、想像の中で生きることは、選択肢が無限にあり、身動きがとれない。

何かを行動するためには、自分がどうしたいか、を決めることの材料として、相手がどう思っているか、どうして欲しいと思っているか、を伝えられなければ、身動きがとれない。

彼に寄生して生きていた彼女たちは、拒絶の意思を伝えられ、その時点では泣き叫んでいても、では、自分が生きるためにどうすればよいかを考えだし、社会的に生きていくことができたのだと想いたい。

この思考過程は、僕自身にも当てはまるところがある。

自分の生きる理由をある女性に見出し、告白して振られ、生きる理由を失い、彼女を自らの日常から物理的・論理的に拒絶、距離を置き、彼女に対する思考リソースが減少、激減し、仕事へのリソースが増え、やっと、今、許す、どうでもよい存在となるという段階となった。

普段の生活における思考が、ちんこに乗っ取られる。

僕が彼女に対して思っていた感情というのは、そういうものだったのだ。

結婚したかった、彼女の子供が欲しかった、そういう僕の想いは、彼女に対する自らの性欲であり、それを相手に言語化あるいは非言語によって伝えることができず、日々悶々とし、それを自分の生きる理由と設定し、ある時拒絶を受け、死にたくなる、という過程を経た。

アイドルをナイフで刺した彼が言った動機は、彼女と結婚したかった、と。

それを聞き、僕も、あの時自死と生命保存メカニズムが秤にかかった時、自分の生命を脅かす存在である相手を、現実から消し去ることで、自分の精神から消す助けとすることを選択した可能性があったのだと、震えてならない。

衣食住を他人に依存する人間は、自立した人間と比較し、狂う確度が格段に上がる。

だから、自分は、このうんこな世界で生き延びるために、少なくとも経済的に自立しなければならないと思うのだ。

 

(7月18日追記)

そしてその上で、精神的な支えをどこに置くか。独り身である僕は、大切な誰かというのは存在しない。少なくとも、相手に何も伝えず、片思いのまま自らの妄想をふくらませることは、相手が自分のことを否定的に捉えていることを知った時、世界が揺らぐ。生きる理由を失う。そのことを身をもって経験した。

大切なのは、自分の心の状態を知ること。言語化すること。それを相手と随時共有すること。そして、相手と自分の心の距離を知ること。その上で、自分がどうしたいかによって、今、この瞬間、行動すればいい。その連続、繰り返し。それが、自分を信頼することだし、相手を信頼することに繋がる。自分を信頼していなければ、行動することはできない。相手を信頼していなければ、何かを伝えることはできない。